妄想日本史 第6回「壬申の乱」なぜ変ではなく乱?倭国から日本へ

妄想日本史 第6回「壬申の乱」なぜ変ではなく乱?倭国から日本へ
まずはじめに・・・
当ブログでは、歴史にハマった管理人が勝手に「実は〇〇だったんじゃないか?」というif…を書き殴っているだけですので、あくまでも正史とは違います。どうか誤解のないよう宜しくお願いします。

壬申の乱以降こそが本当の日本の歴史?

壬申の乱とは

大化の改新により日本のTOPに立った中大兄皇子こと天智天皇

この天智天皇の弟が大海人皇子、息子が大友皇子。そして672年・・・この2人の世紀の決戦こそが壬申の乱と呼ばれている。結論から書くと大海人皇子の圧勝・・・たった1か月で政権を奪取した。ざっくり言えば一族内の争いという、歴史においてよくあるお家騒動だ。

では何故この2人が争う事になったのか?

日本書紀を読み解くと・・・今の奈良県にあった吉野宮で出家して隠居生活をしていた大海人皇子にある疑いがかかる。それは「テロ起こすんじゃないか」という事・・・その為、大友皇子は大海人皇子を殺す為に準備をしていた。それを事前に聞いた大海人皇子が「やるしかねえ!」と戦う事を決意し兵を集めたら、1か月で勝っちゃったそうだ。つまり正当防衛だと書いてある。

ただ、この日本書紀の編纂を命じた人物こそが大海人皇子こと天武天皇なのだ。つまり勝者が綴った歴史書の為、丸ごと信じるのはさすがにありえないよね。

では本当の真実はどうだったのか?どうして壬申の乱がおきたのか?そして何故「変」ではなく「乱」なのか?

これらを記述していこうと思う。

どうして壬申の乱がおきたのか

ただのお家騒動なのか?と聞かれると安易に首を縦にふれない。

というのも、壬申の乱の9年前に起きた朝鮮半島の大戦争・白村江の戦い・・・この時、我らが倭国は第一派:1万余人、第二派:2万7千人、第三派:1万余人とめっちゃくちゃ兵を送ったのに、唐・新羅連合軍に百済と一緒に大敗した。

これにより国内の地方豪族らは「天智天皇に任せてたらやばくね?」とちょっと不信感を持ち始める。一方、ノリノリな唐・新羅連合軍は高句麗も滅ぼし、次は倭国をロックオンした。そこで天智天皇は侵略に備える為に山城と呼ばれる防衛施設を数多に建設し、都を緊急で近江に遷都。その上、庚午年籍を作成した。庚午年籍とは今でいうところの戸籍、つまり年貢の吸い上げと徴兵を効率化したんだ。

ものすごい早い動きだけど、いきなりこんな大改革したから地方豪族らは「天智天皇じゃまずいわこれ」と不信感どころか危機感を持ち始めてしまう。

その後、唐と新羅の連合同盟がご破算した事で新羅から遣いが来るんだけど、天智天皇はこれを厚遇する。が、一方で唐にも遣唐使を派遣・・・つまり二枚舌外交をしていたんだ。国内の地方豪族には「唐が攻めてくるぞ!やばいから協力しろ!」と煽っていたにも関わらず・・・。

しかし、天智天皇がいくら遣唐使を送っておべっか使おうが、唐が新羅を滅ぼした後に倭国へ攻めてくるのは目に見えている。逆に唐へ下れば散々攻めてくると煽っていたせいで地方豪族が内乱を起こす可能性は高まる、そして何よりも対新羅戦でまた出兵を余儀なくされる。こんな緊迫した情勢の中で、天智天皇まさかの崩御・・・

考えてみて欲しい、もし貴方だったらこのタイミングで次の天皇やりたい?

絶対断るよね。情勢がわかっていたのか、大海人皇子も天智天皇から死ぬ前に「後は頼んだぞ・・・」と言われた際、「自分は出家するんで大丈夫っす。息子さんの大友皇子を天皇にした方がいいっす」と断っている。

にもかかわらず・・・大海人皇子は天智天皇の崩御後すぐに出兵、そして壬申の乱が勃発した。

どうだろう?本当にただのお家騒動だと思えるかな?僕には大海人皇子こと天武天皇の綿密に計算された天下取りに見える。

大海人皇子はどうやって勝ったのか

古代最大の内乱と呼ばれている壬申の乱。

大海人皇子は隠居生活をしていた吉野宮を出発した際、奥さんの鸕野讚良(うののさらら)(後の持統天皇だよ)の他には、部下が30人程度だったと言われている。そして琵琶湖の方に向けて歩き、4日後には3万の兵が集まったそうだ。

そんな馬鹿な!

たった4日で協力してくれる3万の兵と彼らの武器防具、そして食料を準備できたというのだ。この史実を大海人皇子の人徳やカリスマ性で片付けるというのはあまりにも非現実的である。つまり、この壬申の乱というのは事前に準備がされていたと見た方がいいわけだ。

では奈良~滋賀あたりまでに3万の兵が準備していた事を、近江にいた大友皇子が気付かなかった?これもまた無理のある話だ。ちなみにこの3万の兵とは、大友皇子が対新羅戦に向けて準備していた兵だったんじゃないかと僕は思っている。

で・・・もう1度、日本書紀に書いてある壬申の乱の内容を書いておく。

吉野宮で出家して隠居生活をしていた大海人皇子がテロ起こすんじゃないかと疑った大友皇子が、大海人皇子を殺す為に準備をしていた。それを事前に聞いた大海人皇子がやるしかねえ!と戦う事を決意し兵を集めたら、1か月で勝っちゃった。

この日本書紀が日本最古の歴史書と呼ばれ、書いてある内容が教科書にのっている。

果たして僕達は本当の歴史を教えてもらったんだろうか?

結論

日本史では、戦国時代明治維新が人気あるよね。でも、どうにもこの古代~奈良時代というのは人気が無い。こんなに面白い背景があるんだけど、大河ドラマでもまず取り上げない。何故だ!

ちなみに日本史において「変」と「乱」の違いを書いておくね。その前後で明らかに政局が変わった場合が「変」、例えば本能寺の変とか第5回でも触れた乙巳の変など。結局その後が変わらなかった(つまりテロが失敗した)場合を「乱」と呼ぶ・・・事が多い。

では何故、隠居していた大海人皇子が政治を司っていた大友皇子に勝った壬申の乱が「変」ではないのか?

実は大友皇子はそもそも即位してなかった説の方が有力なんだ。そもそも大友皇子とは天智天皇と女官だった伊賀宅子娘の間に生まれた子で、純潔皇族ではなく、本来は正統後継者ではないんだよね。そしてもう1つ・・・大友皇子の政権の中枢には、白村江の戦いから亡命してきた百済人が結構重用されていたんだ。

ここで今まで記述してきた事を改めて書くと・・・百済の王子であった豊璋と同一人物という説まである新百済派の中臣鎌足、そして百済人を沢山重用した大友皇子の父親・中大兄皇子、この2人がおこしたと言われている大化の改新・・・

この壬申の乱以降、倭国から日本へと国号を改め、大王から天皇へと呼称が変わったんじゃないかと言われているが、大海人皇子こと天武天皇とは・・・もしかしたら本当の初代天皇だったのかもしれないね。

やっぱりどうして歴史は面白いなあ!

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