妄想日本史 第5回「大化の改新の真実とは」

妄想日本史 第5回「大化の改新の真実とは」
まずはじめに・・・
当ブログでは、歴史にハマった管理人が勝手に「実は〇〇だったんじゃないか?」というif…を書き殴っているだけですので、あくまでも正史とは違います。どうか誤解のないよう宜しくお願いします。

大化の改新の背景にある闇

そもそも大化の改新は本当にあったのか?

聖徳太子の死後、権力を牛耳った蘇我一族・・・蘇我馬子蘇我蝦夷蘇我入鹿

この3人は聖徳太子が目指した律令国家から、またも豪族中心の政治に戻していく。これに対してクーデターを企てたのが中臣鎌足だ。鎌足は、まず軽王子(かるのみこと)に声をかけたが「こいつ、微妙・・・」と思ったようで次に中大兄皇子に声をかけコンビを組む事に決める。そして2人は645年、蘇我入鹿の暗殺に成功(乙巳の変)、息子を殺されて落胆した蘇我蝦夷は自宅を燃やして焼身自殺。その後、鎌足が微妙と感じたはずの軽皇子が即位し孝徳天皇となる。で、このお方が中央集権国家を作る為に改新の詔を発した。

かなりザックリだけどこれが大化の改新

この一連の流れには軽皇子が本当の首謀者説や、蘇我氏どころか当時のTOPである皇極天皇(中大兄皇子の実の母親)ごと吹っ飛ばす革命だったって説など色々な諸説があるんだけど、その中の1つにそもそも大化の改新なんて無かった説がある。といってもクーデターがあったのは間違いないんだけど、正確に言うと蘇我氏という悪者を退治して中央集権国家を作っていったなんていう意識の高い改革ではなかったんじゃないかという事。

というのも、大化の改新の事が詳しく書いてあるのは日本書紀でこれが完成したのは720年・・・そして編纂に深く携わっていたのは鎌足の息子である藤原不比等。要はクーデターを起こした中臣鎌足と中大兄皇子を正当化させる為に後付けされた可能性があるわけだ。

というわけで大化の改新という勧善懲悪の物語があったかどうかはわからないが、クーデターは間違いなくあったと思っていい。

それでは大化の改新とは本来どのようなクーデターだったのか?何が真実なのか?を考えていこう。

失われた国記天皇記

日本最古の歴史書と言えば古事記(712年)、そして日本書紀(720年)になる。

日本で初めて国家が編纂した歴史書が日本書紀、ただ歴史が書き連ねてあって国民向けに作られたのが古事記。でも正確には現存最古の歴史書ってだけで、もっと古い歴史書は存在した。それは聖徳太子と蘇我馬子が編纂し、推古天皇に献上したとされている国記天皇記・・・しかし2つとも既に存在しない。

何故もうこの世に無いのか?

この幻の歴史書は前述した蘇我蝦夷の家にあった為、蝦夷の焼身自殺の際に燃えてしまったのだ。正確には燃えてなくなったのは天皇記であり、国記は船恵尺という人が火中の邸宅から持ち出して中大兄皇子に献上されたとされている・・・が、2つとも既に存在しないのだ。

では中大兄皇子に献上されたはずの国記はどこにあるのか?これが全くわからない。

過去の史実が書かれていたであろう国記と天皇記を持っていた蘇我蝦夷、そしてその蘇我一族を滅ぼした中臣鎌足と中大兄皇子、そして彼らの子孫が編纂した日本最古の歴史書、古事記と日本書紀・・・。

大化の改新とはキナ臭いクーデターだったのかな?

大化の改新とは何をしたのか?

さて、大化の改新とは具体的に何を変えたのか?

  • 公地公民制・・・全ての土地と民を天皇のものとした。
  • 国・郡・・・国と郡を作った。(評(こおり)の設置)
  • 班田収授法・・・戸籍制度を導入した。
  • 租庸調・・・税制システムを導入した。

当時は財力を持っていた豪族が私有地や私有民を持っていたので、それらを天皇のものとし、その上で改めて国をまとめ上げる為に国と郡を作った。これを当時は評(こおり)と呼んでいて、そこの地域のTOPを評造(こおりのみやつこ)と呼んでいた。今でいえば都道府県と県知事みたいなものだね。

そして評造が民をしっかり管理する為に戸籍制度を導入、これにより民一人一人が名前を持つ事となる。その上で税制システム、つまり年貢を納める仕組みを作り、ちゃんと税率も作った。

このかなり現代的な改革・・・実は聖徳太子が作りたかった国家そのものだよね。

大化の改新はやっぱり素晴らしい革命だったのかな?

結論

改めて歴史とは見る視点によって印象がかなり変わるよね。

  • 歴史の改ざんはされていても悪意があったかは別問題。
  • 国記はまだ日本のどこかにある可能性がある。
  • 大化の改新はかなり現代的な改革!

今回のまとめはこんな感じ!こうしてみると本格的な国造りが始まったのはこの大化の改新からと言っても過言ではないね。ただ班田収授法や租庸調といったインフラ整備はすぐではなく、少しずつ段々と変えていったんだ。この改革が加速していったのは唐・新羅 vs 日本・百済という大きな戦・・・白村江の戦い以降と言われている。

ただ、この白村江の戦いは実に不思議だ。だって唐とは遣唐使を送っていたわけで敵対関係とは言い難いし、新羅なんて日本が何度も侵略した過去があるわけで、言ってしまえば殆ど日本の属国だったんだから。実際、当時の新羅政府には日本人もいたと言われている。なのに百済を助ける形で唐・新羅と戦ったってすごい違和感じゃない?

実は大化の改新をやってのけた中臣鎌足はめっちゃくちゃ親百済派だったんだ。時系列を考えると当時の百済の王子であった豊璋と同一人物という説まである。

加えて・・・蘇我入鹿が皇極天皇の次に天皇として考えていた古人大兄皇子という人がある奇妙な言葉を残している。彼は蘇我入鹿が暗殺された乙巳の変の現場にいた。そして入鹿の首がはねられた後、自宅に逃げ帰って「韓人(からひと)、鞍作(入鹿)を殺しつ」と言ったとされているんだ。現代語訳すると・・・

韓人が入鹿を殺した。

この古人大兄皇子は乙巳の変から4か月後、謀反を企てているという事で中大兄皇子の命令により攻め殺されている

どうだろう?大化の改新はどのようなクーデターだったのか・・・貴方はどう思う?

やっぱりどうして歴史は面白いなあ!

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